株式会社豊島屋本店 代表取締役 吉村俊之 社長
“山なれば富士、白酒なれば豊島屋”
昨年、NHKから放映された「まっつぐ~鎌倉河岸捕物控」という時代劇をご覧になっていた方も多いはず。人気時代小説の作家佐伯泰英氏の「鎌倉河岸捕物控」が原作です。この江戸捕物帳シリーズの舞台となったのが、今回お邪魔した株式会社豊島屋本店です。
創業は慶長元年(1596年)、関ヶ原の戦いが慶長5年、江戸幕府が開かれたのは慶長8年ですから、株式会社豊島屋本店は江戸幕府よりも古い歴史を有し、現在は猿楽町で営業を続けておられます。
株式会社豊島屋本店の1階は自社製品の店舗と倉庫、2階への階段を上がって事務室に到着。創業415年の老舗中の老舗、16代吉村俊之社長にお話をお伺いしました。
時代劇の舞台
鎌倉河岸は、その名の通り相模の国鎌倉から送られてきた石材や木材などを積み下ろす場所ということでこう呼ばれました。徳川家康が江戸に入り、将来に備えての江戸城の普請が始まった頃です。江戸城の外濠の北側、現在の内神田二丁目が鎌倉河岸でして、武士、職人、商人などが集まる場所だったのです。
これらの人々をお客様として酒屋および飲み屋を始めたのが株式会社豊島屋本店の始まりだそうです。初代十右衛門は大変なアイデアマンであり、商売上手であったようです。
この当時、酒と言えば灘や伏見から送られてきた“下り酒”が中心です。初代十右衛門はこの高品質な“下り酒”を原価で売ったそうです。当然庶民は大喜び。儲けは大量にでる空樽の販売です。当時4斗(72ℓ)の空樽は物入れや腰掛けなどさまざまな用途に使われたらしく、酒で儲けずお客様の数を増やし、空樽で儲けるという作戦が見事に大ヒット。
さらに、酒と言えば肴。特大の豆腐に少し辛めの味噌をたっぷり塗ってこんがり焼いた豆腐田楽を開発。辛めの味噌が酒にピッタリだったのです。しかも二文という安さでまたもや大ヒット。豆腐田楽を食べながら、店先でお酒を飲む。つまり、株式会社豊島屋本店は現在の居酒屋、立ち飲み屋の原形でもあるらしいのです。最近、NHKの“サキどり”という番組でも取り上げられたそうです。
空前の大ヒット“白酒”の誕生
味醂(みりん)をベースとし、もち米、こうじなどをつかって作られる白酒。ある日、初代十右衛門氏は夢枕で白酒の製法を紙雛様から教授され、そのとおり作ったところ、本当においしい白酒ができたのだそうです。株式会社豊島屋本店最大のヒット商品、“白酒”の誕生です。
株式会社豊島屋本店の商品パンフレットの表紙は、長谷川雪旦の描いた「江戸名所図会」(1836年)です。店の前に白酒を買いにきた人が溢れ、行列をなしています。「鎌倉町 豊島屋酒店白酒を商ふ図 例年二月の末 鎌倉町豊島屋の酒店に於て雛祭の白酒を商ふ 是を求めんとして遠近の輩黎明より肆前に市をなして賑へり」と説明が書かれています。
女性が人前で飲酒することが憚られていた時代、白酒はひな祭りの前に売り出され、ひな祭用ということで女性にも大人気だったのです。
あまりにお客様が殺到し、日頃販売している酒や醤油はこの期間は販売中止。お客様の怪我に備えて医師や鳶職も待機させていたことが「江戸名所図会」で見て取れます。豊島屋の“白酒”は江戸の名物といわれるほど大変な人気だったのです。その人気ぶりは“山なれば富士、白酒なれば豊島屋”とまで詠われたほどでした。
現在でも“白酒”は昔と同じ製法で作られており、1月末から桃の節句頃まで売り出されています。
3つの危機
大変に順調なスタートを切った株式会社豊島屋本店ですが、400年以上ずっと順調だったわけではありません。大きな3つの危機がありましたという吉村社長。
まず最初は明治維新。当時、庶民と違い武家には掛売りをしていましが、その武家が明治維新という大転換で一気に失職してしまったわけです。売掛金は滞り、現金不足の経営危機に陥りました。当時の当主12代目吉村政次郎は蕎麦屋への販売に大きく経営の舵を切ります。醤油、味醂、調味料など、酒以外にも蕎麦屋に必要となる食材を提供することにしたのです。この戦略が成功し、不安定な武家から、安定した蕎麦屋への転換で危機を乗り切ります。現在でも株式会社豊島屋本店は酒が有名ですが、酒以外の食品も扱っており、東京の半分近くの蕎麦屋には何かしらの食品を納めているとのことです。
次の危機は大正12年に起こった関東大震災。関東一円に大きな被害を及ぼし、株式会社豊島屋本店でも店舗の建物が完全に崩壊したそうです。この大災害の際にもお客様からの信頼は厚く、美土代町に移転して再開します。
3つ目の危機は太平洋戦争です。昭和19年の空襲で店舗は焼失。終戦後も内神田は占領軍がモータープールとして接収したため、自宅のあった現在の猿楽町に移転したそうです。
明治維新、関東大震災、太平洋戦争という3つの大きな危機。これらを乗り越えて株式会社豊島屋本店は活動を続けているのです。
自社ブランド“金婚”の誕生
明治維新という危機を乗り越えた12代目吉村政次郎は、酒造りに参入することを決意。兵庫県灘に酒蔵を作り、最高級の日本酒の製造を始めました。大正天皇のご成婚の時期と重なり、ブランド名は“金婚”となりました。その後昭和の時代になって、神戸が地理的に遠いという理由から酒蔵を現在の東村山に移転。優秀なる蔵人さんが地下150メートルから汲み上げる富士山系の伏流水を用いて、大変にいいお酒を醸しています。
現在東村山の酒蔵は豊島屋酒造株式会社として分社化され、株式会社豊島屋本店とグループとして活動しています。
代表ブランドである“金婚正宗”は、全国の新酒鑑評会で何度も金賞を受賞しています。現在、明治神宮、神田明神、日枝神社には御神酒として納めており、まさに江戸、東京を代表するお酒なのです。
しかし、株式会社豊島屋本店では、昔ながらのお酒や味醂だけに固執しているわけではありません。
新商品開発として発泡性の日本酒“綾(あや)”を売り出し、大変に好評を得ています。日本酒を炭酸水で割るのではなく、日本酒にもろみの成分を残して詰め、日本酒自体を発泡させることに成功したのです。開発には約3年間要したそうです。若い女性を重要な対象にしているので、デザインもとってもオシャレな感じです。
また、地域と連携し、地域限定のお酒を造る取り組みも行っています。空港のある羽田のお酒として、“羽田”というブランドのお酒を開発。羽田空港のお酒の土産では一番の売れ筋だそうです。他にも東村山、多摩湖、清瀬、東久留米、武蔵野、新宿、神田橋、浅草、日本橋などどんどんその数は増えています。
日本国内における日本酒全体の需要は現在下げ止まりで横ばいになりつつあるといった状態ですが、ギフト、お土産などまだまだ伸びる余地があり、女性の日本酒ファンの獲得、海外にも挑戦していきたいと吉村社長。新たな日本酒の可能性を探っています。
代々受け継がれる理念
「お客様第一」、「信用第一」が、株式会社豊島屋本店に代々受け継がれてきた商売の心得だそうです。これまでいくつもの大きなヒット商品を生み出してくることができたのは「お客様第一」に商売を考えてきたからであり、3つの大きな危機を乗り越えられてきたのは、お客さまからの信用があったからこそです、と吉村社長。
さらに長い歴史を支えるため代々実践してきたこととして「不易流行」を挙げます。これは松尾芭蕉の生み出した理念の一つと言われています。変えてはいけないこと(不易)はしっかりと守り、変えていくべきこと(流行)は大胆に変えていくという意味ですが、信用、信頼、品質、のれんと言った不易はしっかりと守り、マーケティング、商品構成、販売チャネルなどの流行は大胆に革新をしていくことが伝統を守っていくことですと吉村社長。
吉村社長の祖父(先々代)は銀行員、父は(先代)は化学の工学博士として高分子の研究開発、吉村俊之社長自身は日立製作所の中央研究所で工学博士として半導体の集積回路微細加工の研究を行っていました。それぞれ酒造りとは全く違う分野で活躍し、その後に株式会社豊島屋本店の経営を行うという経歴を持っておられます。大胆な革新ができるというはこのあたりに秘密があるのかもしれません。
日本の文化を守る
日本酒は人間の五感すべてを使ってつくる飲料であり、マニュアル化、デジタル化は非常に難しい。杜氏をトップとする蔵人達の努力の賜物が日本酒ですと吉村社長。 ワインの出来が葡萄の出来に大きく左右されるのと違い、日本酒は匠の技で左右される部分が非常に大きいのです。
日本酒は日本の食文化を支える大きな柱の一つです。吉村社長は、酒造りと販売は日本の文化を守ることであり、株式会社豊島屋本店の経営を継続させていくことで、少しでもそれに貢献したい、創業500年を迎えられるような基盤作りが自分の仕事ですとおっしゃいます。
また自社のことだけでなく、東京で3代・百年以上の歴史を持つ老舗五十三店の集まりである「東都のれん会」に所属。パンフレットやホームページ制作など、広報の取りまとめを担当されています。
しっかりと受け継がれている経営理念、長期的視点でゆとりをもった経営戦略、大きな家族としての人財育成など老舗企業から学ぶべきところがたくさんあると感じた今回の企業探訪でした。
◇株式会社豊島屋本店
http://www.toshimaya.co.jp/