千代田区の外郭団体
公益財団法人まちみらい千代田 公式ウェブサイト

文字サイズ
標準 拡大
サイト内検索
お問合わせ
マンション管理 最近の動向
お役立ちコラム

通水100年を迎えた都心を水害から守る荒川放水路

マンション管理士 飯田太郎 氏

通水100年を迎えた
都心を水害から守る荒川放水路

 令和6(2024)年10月12日は、荒川放水路通水100年にあたります。荒川は隅田川の上流にあたり、その名のとおり荒い暴れ川で、昔からたびたび洪水を起こしてきました。明治時代には流域で多くの工場が操業するようになり人口も急増したため、洪水の発生時には被害が深刻でした。特に明治43(1910)年8月、梅雨前線と台風が重なる大雨で関東平野全体が水につかり死者369人、被災者約150万人と、当時としては空前の大災害(明治43年大水害)が発生しました。
 このため、東京都心部を水害から守るために、現在の北区岩淵町を起点とし足立区、葛飾区、墨田区、江東区、江戸川区を流れて東京湾に注ぐ、全長約22km、川幅455m~582mの放水路を人工の大河として開削することになりました。放水路の用地は当時ほとんどが田畑でしたが、開削工事で約1,300世帯の周辺住民が移転したといいます。
 現在のような重機がまだ無い時代のため、初期の掘削は大半が人力で行われました。その後、大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦の影響もあり技術力が急速に発達、蒸気掘削機と蒸気機関車を組み合わせた機械掘削も取り入れたとのことです。鉄道や道路の橋梁も多数架橋され、常磐線、総武線、東武線、京成押上線の鉄道4橋、道路13橋が架橋されました。
 通水の前年の大正12(1923)年9月1日に関東大震災が発生、造成中の堤防等も大きな被害を受けたということです。荒川放水路が正式に完成したのは通水開始から6年後の昭和5(1930)年でした。
 昭和20年(1945)年の敗戦から間もない昭和22(1947)年のカスリーン台風をはじめ、多くの台風が関東地方を襲い大きな被害は出ましたが、荒川放水路の西(都心)側は洪水の被害を免れました。その後もたびたび水害は発生しましたが、都心方面が被害を受けることはなく、荒川放水路開削の効果が発揮されました。国土交通省(関東地方整備局)荒川下流河川事務所が作成したシミュレーション地図によれば荒川放水路が開削されなければ、隅田川の氾濫により神田地区一帯が浸水被害を受けたということです。
 なお、昭和39(1964)年の河川法改正により荒川放水路が荒川の本流になり、隅田川は荒川水系の一級河川になりました。
 現在の荒川は広々とした緑の河川敷がスポーツやレクリエーション等に利用されています。また、首都直下地震等で都心部が大きな被害を受け、鉄道や道路網が使えなくなった場合に、人や物資を船舶で運ぶ役割も果たします。荒川は千代田区から離れているため、区民にとって縁遠い存在だと思いがちですが、千代田区民の安全を守る大切な河川です。
※出典:荒川放水路変遷誌(国土交通省荒川下流河川事務所)

* * *
〈荒川放水路変遷誌〉https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000704042.pdf
〈上記概要版〉https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000091751.pdf
* * *


神田川の洪水から都心を守る
環七通り地下の巨大なトンネル

 東京23区の東部には千代田区等の都心部を水害から守るもう一つの「放水路」があります。神田川水系(善福寺川、妙正寺川)が大雨で氾濫したときに備えて、環状七号線の道路下に延長4.5km、内径12.5mの巨大なトンネルを建設し、神田川水系の洪水約54万㎥を貯留する施設です。この調整池は施設の規模が大きく、全体の完成に時間がかかるため第一期、第二期に工事を分けて整備しました。
 第一期工事は延長2.0kmの神田川取水施設のトンネルで昭和63(1988)年に着手、平成10(1998)年に完成しました。善福寺川、妙正寺川の取水施設等を整備する第二期工事も平成20(2008)年に完成しました。
 第一期工事完成前の平成5(1993)年の台風11号による大雨では、3,117戸が浸水被害を受けましたが、平成16(2004)年の台風22号で同程度の雨が降ったときには浸水家屋は46戸に激減し、調整池が効果を発揮しました。令和元(2019)年の台風19号では、総貯水量約54万㎥の9割(約49万㎥)まで洪水を貯留し、東京23区の浸水を防ぎました。将来は環状七号線地下のトンネルを延伸し東京湾につなげることで、巨大な放水路(地下河川)とする構想もあります。
※出典:神田川・環七地下調整池(東京都建設局)
 千代田区を流れる河川は神田川と分流する日本橋川だけですが、徳川家康の入府当時は現在の日比谷公園や大手町一帯は日比谷入江という海でした。また、幕末まで神田には上野の不忍池よりはるかに大きいお玉が池がありました。千代田区洪水ハザードマップを見ても分かるように、千代田区は現在も洪水の被害を受ける可能性があります。東京区部の東西にある2つの人口河川の役割を忘れないようにしたいものです。

* * *
〈神田川・環七地下調整池〉https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000029010.pdf
* * *

マンションサポートちよだmini第170号掲載(2024.10月発行)
(PDFはこちら