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神田学会・久保金司さんの物語り

01

神田に集う人たち

1977年から続く『KANDAルネッサンス』というタウン誌がある。街中のちょっとした情報を提供する本誌は神田のビジネスマン達に重宝されており、発行回数も百を超える歴史あるタウン誌だ。

単なる情報だけにとどまらず、コラムや座談会などの読み物まであり、細部まで手が込んでいることがわかる。地元“神田っ子”や他方から働きに来る人にも親しまれているだけあって、読み応えもなかなかのものだ。何より、作り手の神田に対する愛を感じる。

そんなKANDAルネッサンスの発行の発起人が、神田学会理事を務める久保金司さんである。神田で生まれ、神田で育った。

神田学会は、久保さんが1987年に立ち上げた。神田にゆかりのある人や神田に興味を持った人たちが集い、神田の歴史を知るための講義を開いたり、神田をよりよい町にするには何ができるかを考えるなど、まちづくりについてさまざまなことを学び合う。

そして何より、神田に人々の交流を育む貴重な場になっている。

02

喫茶店で読んだタウン誌がきっかけに

KANDAルネッサンスが生まれたきっかけは、何気なく入った喫茶店だった。そこは全国のタウン誌をコレクションしているユニークな喫茶店で、ページをめくるとほほえましくも興味深い“街に密着した情報”があった。

「神田に通うビジネスマンにとって、意外とこういった情報がおもしろいのではないだろうか」
神田のある千代田区は5万の住民に対して100万のビジネスマンがいる。だからこそ「この人達を大事にしなければ街は良くならない」と久保さんは思った。彼らに街を楽しみ、街を愛してもらいたい。自分が神田に愛着を感じるのと同じように。

喫茶店で見たタウン誌には、商店街に古くからある美味しい飲食店の紹介や、タバコ屋の美人店主の話、◯◯さん宅で子供が生まれた話など、かなりローカルな情報がつまっていた。何気ないが、久保さんにはそれこそが街の人とビジネスマンをつなぐツールに思えた。

03

若くして知った、社会の為に働く喜び

神田で生まれ育った久保さんは、31歳から40歳まで東京青年会議所に参加した。当時、青年会議所のメンバーは集まったからといって何をするでもなく、会合にかこつけて銀座で酒を酌み交わし、語り合うなどしていた。各人が自身の仕事に集中し、自分達のためだけに汗を流す日々だった。

久保さんは、社会活動を目的とするはずの青年会議所が、そんなことでいいのだろうか、何か自分にできることはないだろうか、と考えていた。

ある日、仲間の一人が思わぬことを口にする。

「これだけ人が集まっているんだから、社会の役に立つ活動をしよう」

久保さんは驚いた。自分と同じ考えを持っている人間がこの場にいると思わなかったからだ。

久保さんは、その当時大工として働いていた。しかし、働きながら「このまま大工で終わりたくない」という気持ちがどこかにあったという。

「社会のためにできることはないか」
「自分の生まれ育った町をよりよくしたい」

若くして抱いていた漠然とした思いと仲間の一言が、30を過ぎた久保さんを行動に駆り立てた。

子どもの交通事故を減らすための運動や、川の清掃活動、毎朝の商店街の掃除など、久保さんは同志と共にあらゆる社会奉仕活動に従事した。
この活動は次第に各方面から注目されるようになり、取り上げるメディアや協力者も増えていった。

数え上げたらキリがない。地域のために、同じ志を持つ者と汗を流し、町の人々の喜ぶ顔を見るたび、久保さんはえもいわれぬやりがいを感じていた。

04

神田を人の住める街に

今でこそビジネス街としての印象が強い千代田区神田だが、かつては熱くて粋な“神田っ子”たちの交流が町中で繰り広げられていた。

壁一枚で隣家と隔てられた長屋、店主と客がいつも軽口をたたき合う酒屋や八百屋。子どもも大人も、おじいちゃんもおばあちゃんも、行き交う人が皆あいさつを交わし、祭りの日には老いも若きもが一世一代の漢気を見せて――。

そんな日常があたりまえの町だったに違いない。

昭和60年代に入ると、神田には少しずつオフィスが増え始める。

地上げ屋の台頭により古い建物は容赦なく壊され、放置された空き地が目立つようになる。すると当然、神田に住まう人は減っていく。
働く人と住む人がバランスよく共存していた町が、だんだんとその調和を崩し、神田は「人の住まない街」になってしまった。

「住民がいない街は良くならないんですよ。人が住んで初めて“町を愛する”わけですから。愛するから自分の街を良くしようと思う。人の住まない街は良くなりません」

久保さんは、千代田区に美しい景観をどう取り戻そうかと考えた。人が住みたくなる景観を、住む人が自慢したくなる景観を、どうやって……。

久保さんは、識者らと共に立ち上がり、景観審議委員会を組織する。
景観審議会で定めたルールに沿って、景観向上のために精力的に動いた。

「昔、皇居のやぐらからは360度見渡すことができたんですよ。だから景観を考え、あそこにある看板は無くそうとか、色々と対策を行いました」

人の住める街をつくりたい、でも、地上げ屋に出て行けとはいえない。 「だから、企業に訴えたわけです」

大手デベロッパーの担当者と会って協力を仰いだ。
その社長にも会いに行き、
「単にビルを作るだけではダメです。住民を増やさなければなりませんから。神田に人が住める街を作って欲しい」と直談判した。

粘り強い行動と、これまでの功績が認められたのか、
「結果、とても良い景色になりましたよ」と久保さんは語る。
現に、今となっては千代田区の人口は6万人に近づいている。

05

未来へつなげるまちづくり

当時、壊されていく街の状況に危機感を覚え、「どうにかしたい」と強く思ったのは、久保さんただ一人であったかもしれない。

神田学会を立ち上げたのは、神田をかつてのような「交流」のある街にしたいと強く思ったから。そして、そのためには神田に愛着を持つ地元の人たちの力が必要だと感じたから。
さらには、愛する神田がどんな町で、どんな歴史を歩んできたかということを、地域の人たちと一緒にたどってみたいという思いもあった。

多くの結果を残してきた久保さんが考えるまちづくりとは何だろう。

「まちづくりは “未来志向”でなければなりません。同時に、自分達の住む場所でもあるから、自分達のためにもやっていかなければいけない」

街がかつての姿を失っていくのを、久保さんは決して悲観的に見ていなかったように思う。
強い使命感のもと、同じような思いを持つ人、多くの識者や専門家を巻き込み、2001年にはNPO法人として地盤を固めた。

「法人化は、我々の地域社会への活動を財産として後世に引き継いでいくための手段の一つにすぎません」

久保さんは、そんな思いも口にした。

それにしても、久保さんのまちづくりに対するモチベーションは、どこから来ているのだろう。

「うーん」
と少し考えて、久保さんは言った。

「やっぱり、このまま職人(大工)で終わりたくないと思って。経営者になりたいと思ったんです。昔から向上心はあったんでしょうね」

以前久保さんは神田学会とは別に経営者としても社会に貢献していた。
経営を通じて身にしみたのは、“共に咲く”という言葉だったという。
久保さんの地域活動にそのまま生きている。

まちづくりに明確な答えが出ることはない。
だからこそ長く続けることが難しい。

久保さんだからこその多角的な視点と行動力、何より生まれた街を思う気持ちが、40年も活動を続けられた理由かもしれない。

民間の立場にありながら、長きにわたり地域の課題に向き合い続けた久保さんの功績は大きい。

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