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後藤禎久さんの物語り

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神田の文化人との出会い

神田は東京の都心中の都心だが、庶民的な懐かしさと江戸情緒が街の至る所に残る。後藤禎久さんの自宅は、昭和初期に建てられた神田多町の日本家屋。
引き戸や板塀に古き良き和のたたずまいを残す。玄関周辺には、季節の花が咲いていた。

後藤さんは現在「市井人・斎藤月岑に学ぶ会」会長で、会の勉強会を取り仕切るかたわら、日々、図書館などでの調べ物に明け暮れている。

後藤さんが斎藤月岑を知ったのは、全くの偶然だった。
「千代田まちづくりサポート」の1回目に参加した「江都天下祭研究会神田倶楽部」の活動で、『明神さまの氏子とお神輿』という神田明神の祭礼に関する本を出版することとなったが、説明文を神田倶楽部に属していた後藤さんが執筆することとなったのだ。

この本は、天下祭りとしてその名を知られた神田祭とその祭礼文化について、祭に参加するすべてのお神輿を写真入りで紹介するもので、後藤さんは、お祭りに関する膨大な資料に埋もれているとき、『江戸名所図会』を著した「斎藤月岑」を知ったそうだ。その時、地元神田でも忘れられてしまった月岑を表に出したいとの思いもあり、仲間内で細々と勉強会を始めることとなった。

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斎藤月岑の研究会を発足

その当時、後藤さんは月岑についての知識はほとんどなかったが、勉強会を重ねるごとに人間、斎藤月岑への興味が増してきた。

『江戸名所図会』は、江戸に関する正確かつ綿密な史料として江戸を研究する上で欠かせない。

「この本は、斎藤月岑著、長谷川雪旦画として有名ですが、それ以外にも月岑が名主としての職務のかたわら、江戸の文化や地誌と江戸の町政について貴重な著作や資料を残してくれていることについては、知られていません」

しかも、墓は旧跡に指定されているのに、生誕地はなにも注目されていないのはあまりにも寂しいと思い、斎藤月岑を研究する「市井人・斎藤月岑に学ぶ会」を発足させ、会長に就任。当時、江戸東京博物館副館長の北原進先生(現品川歴史館館長)を迎え、まさに50の手習いで古文書の見方から勉強を始めた。

その後、知れば知るほど斎藤月岑にのめりこみ、もはや使命という意気込みで取り組んだそうだ。

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斎藤月岑生誕地の碑建立に尽力

「学ぶ会」が発足し、会のメンバーと月岑個人について調べ始めたところ、さまざまな発見があった。その中で、生誕地が後藤さんの自宅から程近い場所にあるということがわかったそうだ。
そこで2004年がちょうど月岑の生誕二百年であるということで、月岑に光をあてるのは今しかないと思ったという。

「学ぶ会」では平成15年夏に調査・研究成果をまとめた『市井人(まちびと)・斎藤月岑』を発行。初心者にも分かりやすく記された“月岑入門書”ともいえる一冊となった。
これに続き、生誕の地に顕彰碑を建立する活動に取りかかった。
「地元の人たちによって碑を建てることに意義がありましたし、これによって地元が盛り上がればと思いました。とにかく“月岑”を知ってもらい、いずれは “月岑文庫”を生誕地に設けて、私たちが翻刻した名主としての町の記録『類聚撰要(るいじゅうせんよう)』などを陳列したい。ここへ行けば月岑に関する資料はすべてそろっているというような、文化的な息吹を感じられる一角にしたいと思いました」。

その後、「千代田まちづくりサポート」に応募し、顕彰碑建立のための事務的な経費について助成を受け、地元の人たちや関係者から寄付を募り、月岑研究に携わる人たちや神田神社をはじめ多くの人たちの協力によって、生誕二百年である平成16年11月、斎藤月岑の顕彰碑が生誕地である神田司町二丁目に建立された。

石碑に使われたのは、東京駅の旧鍛冶橋付近に埋まっていた江戸城外堀の石。斎藤月岑もその石を見たかもしれないという、ロマンを感じさせるものになった。除幕式は盛大に執り行われ、マスコミにもずいぶん取り上げられたそうだ。

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「斎藤月岑に学ぶ会」でのさまざまな活動

「斎藤月岑に学ぶ会」は月岑研究を目的に始まった会であり、現在もその活動は続いている。
顕彰碑が完成した後、多くの研究成果や活動記録をそのまま埋もれさせないようにと、平成21年より会報誌『翟巣(てきそう)通信』を発行。月岑の雅号である「翟巣(※雉の巣の意:月岑は雉子(キジ)町の名主をしていた)」を冠したこの会報誌は、北原進氏はじめ作家の森まゆみ氏、日本文化の研究で著名なアメリカ・ジョージタウン大学教授ジョルダン・サンド氏など、多くの著名人による寄稿に加えて、会員もそれぞれ研究成果を発表するなどして発行は回を重ねた。現在は江戸東京博物館や千代田図書館及び早稲田大学図書館にも収蔵されている。

学ぶ会はその他、『江戸名所図会』の画を描いた長谷川雪旦の墓所がある世田谷の北烏山を訪ねたり、箱根に合宿に行って関所を見学するなど、座学だけでなく、実際に現地に赴いて歴史を検証する活動も行っている。さらに、千代田図書館などで研究発表や、成果の展示も行った。

後藤さんは平成28年、新島襄「生誕之地 碑前祭とシンポジウム」が開かれた際、シンポジウムにパネリストとして招かれ、講演を行った。これは、現在の神田錦町にある学士会館の地が安中藩江戸上屋敷跡地であり、新島襄はこの屋敷内で生誕していることから、毎年碑前祭が行われるのに合わせて開催されたシンポジウムだった。

後藤さんは、パネリストとして新島襄が神田で生きた時代の斎藤月岑との関わり、当時の神田祭との関わり、江戸屋敷での生活のことなどを講演。京都からも、同志社総長など同志社に関係する多くの人が参集され、熱心に話に耳を傾けられたそうだ。

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ライフワークで明治時代の新聞を読む

後藤さんには、斎藤月岑の研究とは別に、10年以上もの長い間、ライフワークとして取り組んでいることがある。
それは明治時代以降の新聞を調べること。古い時代の新聞の縮刷版やマイクロフィルムから神田に関連する情報を見つけて、収集しているのだ。

「当初は、お祭りについて調べ始めました。時代が江戸から明治に変わり、当時はどんなお祭りをやっていたのか全く知られていない。江戸時代の研究をしている人はたくさんいるのに、明治以降の研究者はほとんどない。それならと、自分で調べることにしたのです」。
将軍が治める徳川幕府から、天皇をいただく明治政府に変わった時期。そして明治初期の混乱期を抜けて、明治22年には江戸開府300年を記念した行事も行われた時期には、お祭りにも変化があった。
やがて電線が引かれるようになって、江戸時代のお祭りでは街を練り歩いていた華やかな山車を走らせることができなくなり、お神輿に変わっていくなどの変遷もあった。

そういった時代に伴う推移を踏まえて、後藤さんは地域でどんなお祭りをしていたかを調べ続けている。これらからさらに広げて、街や市井の人たちの変遷について、研究も行い、明治時代の神田商家について調べた私家版『神田區營業家明覧』などを発刊。これらの内容はすべて、後藤さんの手で年代、名称別にパソコン内にデータ化され、検索すれば必要な情報が取り出せるようになっている。

「明治時代の新聞から、ほとんど誰も知らないような、でもおもしろそうな記事を、キーワードごとに集めています。これは好きだからやっていることですね。ただ終わりがないし、完成形もないけれど」

これらの重要なデータは現在、膨大な量になっており、いつか誰か同じ志を持つ人に委ねたいと後藤さんは思っている。

さらに、大工の棟梁として地元に貢献した父親より引き継いだ、千社札の収集と研究も続けている。こちらも千社札をたくさん所蔵、研究しているアメリカ・オレゴン大学から、分析と資料整理のサポートを依頼されている。

「生まれ育った神田は、私にとって最も愛着のある土地。愛する神田の街のこと、そしてこの地に暮らしたさまざまな市井の人たちのことを、今後も語り継いでいきたいですね。これからの子どもたちも神田に対する愛情と誇りが持てるように」。

神田への愛情と想いは底知れぬほど深い後藤さん。現在はビルやマンションが建ち並ぶ街並みも、以前は露地がありコミュニティのある暮らしがあった。昔から暮らす神田の人たちの関わり、結びつきは今も強い。街並みは様変わりしてしまったかもしれないが、それでも変わらず神田を愛する気持ちが、この地の歴史や人の研究を続ける後藤さんの原動力になっているようだ。

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