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槇野汐莉さんの物語り

01

「なんだろうこの世界!」
幼き日の電気街との出会い

槇野さんが秋葉原で働きはじめたのは、2006年のこと。当時24歳、Akiba Deep Travelで働く前のことだ。

当時の秋葉原といえば、少し前の2005年代半ばに、電気街・秋葉原駅の前に家電量販店「ヨドバシカメラ」ができたことで話題となったころ。加えて、つくばエクスプレス、秋葉原UDXの誕生、いわゆる“オタク”を主人公にして注目された、2ちゃんねる掲示板(当時)への投稿をもとにした映画『電車男』熱も冷めやらぬ、アキバブーム真っただ中の時代だ。

この年を皮切りに、秋葉原は商業の地という顔だけでなく、観光地としての顔も持つようになっていく。

そもそも槇野さんが秋葉原を拠点に活動するようになったきっかけは、小学1年生にまでさかのぼる。

「小学校の運動会で応援時に音楽を流すのですが、そのとき聴いたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の曲にハマってしまったんです。それで、父にねだってカセットテープを買いに連れて行ってもらったのが、秋葉原の石丸電気のレコード館。これが人生初の秋葉原でした」

今はその姿をなくしてしまったが、当時ポップス以外のめずらしいジャンルのレコードや、解散したグループのCDなど、なんでも取りそろえている場所といえば石丸電気だった。

「そのとき、レコード館への近道として通った、JR総武線高架下の電子部品街の世界観に衝撃を受けてしまったんです。小さなお店がひしめきあっていて、工具とか電球とかが駄菓子みたいな値段で売っていて、『わあ、なんだろうこのお祭りみたいな世界!』って(笑)」

特に槇野さんを惹きつけたのが、持ち手が飴のように透き通ってきらきら輝く、色とりどり、大小さまざまのドライバーだった。

以来、槇野さんは電子工作の世界に夢中になってしまう。パーツを求めては父と秋葉原に足を運び、くるくる光るおもちゃの魔法のステッキを見ては、「どのような仕組みで光っているんだろう」「自分で分解してみたい」という機械への探究心を育んでいった。

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「領域を荒らされるような感覚」から転じて、
「アキバの魅力を知ってもらえたら」

中学を卒業し、高等専門学校へと進んだ槇野さん。秋葉原に電車一本で出られる沿線に学校があったこともあり、相変わらずアキバ通いを続けていたという。

やがて訪れた、2006年のアキバブームと観光地化を目の当たりにしたとき、槇野さんが思ったのは、「自分の領域を荒らされるかもしれない」だった。

「『秋葉原に行けば映画に出ていたようなオタクに会えるんでしょ?』『メイドさんと写真が撮れるんでしょ?』と、今でいう上野のパンダを見に行く勢いで大勢の人たちが押し寄せました」

槇野さんにとって、子どものころから慣れ親しんだ秋葉原は、やっぱり電気の街であり、電子部品の街。身を寄せ合って建つ小さなお店に、きらきらのパーツが並ぶ魅惑の高架下−−。新しい文化によって秋葉原が一気に沸き立ったことで、少し戸惑いを覚えたのかもしれない。

でもすぐに、「私も秋葉原がずっと大好きでいたんですが、同じ趣味を共有できる身近な仲間には飢えていたので、このアキバブームをきっかけに秋葉原の魅力に気づいてくれる人が増えたらうれしいと思いました」

そのころ出会ったのが、「アキバガイド・ドットコム(現 アキバ地域活性化事業)」という会社がつくっている秋葉マップという地図だった。数えきれないほどの店が地図上にびっしり載っていて、秋葉原がいかに多様な街であるかがうかがえる。

秋葉原には、大きな商業施設もあれば古くて小さな雑居ビルもある。秋葉原に来る人が求めるメイドカフェやホビーショップなどは、意外にも路面店ではなく、こうしたビルの上階にあることが多い。このことについても槇野さんは、「メイドカフェを探しに漠然と秋葉原に来たはいいものの、なかなかたどり着けない人も多い」という。だから、「観光客の方が行きたい場所を案内できるよう“おもてなし”をしよう」と思った。

そこで、ゲーマーズというキャラクターショップの軒先を借りて、机と椅子と「秋葉原案内所」の看板を置き、メイド服を着て、秋葉原を訪れる観光客のさまざまなニーズに応えるという仕事を行った。 

秋葉原をできるだけ子細に、正確に案内するためには、秋葉マップの更新も欠かせない。

「今まではアキバ大好きユーザーとして、自分の興味があるお店にしか寄りませんでした。でも秋葉原の店って、実は1か月に1回の頻度で入れ替わることも多くて。だから地図を最新の状態にしておくために、こまめにお店の生存確認をするんです」

実際に足を運んで、「このお店は新しくできたな」「以前と品そろえが変わったな」「店名は同じなのに業態が変わっているな」といった目線で、秋葉原の街を歩くようになったという。

「CDとかDVDなどのメディアを扱っていたはずなのに、いつの間にか雑貨屋のようになっていたなんてことも、めずらしくないんです。『観光客がいっぱい来るからTシャツ売りはじめてみたんだよね』という店主さんとか(笑)」

こうした日々を繰り返し、槇野さんは秋葉原という街について詳しくなっていった。以後6年間にわたり、メイド姿での秋葉原案内は続く。

しかし、訪れた2014年。幼き槇野さんが秋葉原愛に目覚めるきっかけとなった大好きな電気街の風景が、なくなってしまうことを知った。

03

長く愛された電気街の遺産
違う形で生かすには

メイド姿で観光案内をしていた当時から、誰に頼まれたわけでもないのに、槇野さんは子どものころから大好きな高架下の電子部品街へ、観光客をよく案内していたという。

そんな中、耳にしたのが2014年に大好きな場所のひとつがなくなるという悲しい知らせだった。

電子部品街は、「秋葉原ラジオセンター」「秋葉原電波会館」「秋葉原ラジオストアー」という3施設が融合した施設で、それぞれの施設はさらに小さなパーツショップの集合で成り立っている。このうち、ラジオストアーがもっとも古い施設にあたるが、店をたたんでしまうというのだ。

ラジオストアーのあった土地を、所有者である国鉄(当時・現JR)から借り受けていたのが、秋葉原駅前商店街振興組合だった。

「私としてはここの風景を残したいという強い思いがあり、そんな折、秋葉原駅前商店街振興組合から『何かやってみたら?』と声をかけていただきました」

かつての風景がなくなることは残念だったが、そのことをただ惜しむだけでなく、新しい形で生かしたいと考え、これを機に槇野さんが設立したのが、電子工作スペース「PCN秋葉原 ASSEMBLAGE(アセンブラージュ)」だ。

「最初は、ここを観光案内所にしようと考えていましたが、どうせならこの場所を遺産としてちゃんと残していって、にぎわっている姿を見せたいと思い、電子工作スペースにしたいと申し出ました」

具体的な活動は、

「組合さんが主催する電子工作教室を行ったり、たくさんある部品の中のジャンク品を売ったりとか」

とりわけ力を入れているのは、子どもたちを対象にした電子工作のワークショップだ。槙野さんはここで、代表として、また一講師として、10人ほどの仲間とともに活動している。

「秋葉原に昔からの家電屋さんがなくなっていき、電子部品屋さんもインターネット販売のほうが儲かるからと店をたたんだり、後継者がいなかったり。新しい血を入れないと、昔ながらのアキバ文化はどんどんと先細りをしてしまい、高齢化してしまいます。PCNのような場所をつくることで、子どもの自由研究に役立ったり、2020年に必修化されるプログラミング教育に先んじて、機械の仕組みに慣れ親しむきっかけになったりするのではと思っています」

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千代田区の子どもたちに、
“電気街”秋葉原の魅力を伝えたい

しかしPCNの活動は、思ったように軌道にはのらなかった。FacebookやTwitterでワークショップの告知をするが、「いいね!」やリツイートはされても、秋葉原の高架下という場所柄、到底子どもが集うにほど遠いイメージがあるのか、なかなか集まってもらえなかった。

そんな折、槇野さんが秋葉マップの作成過程で出会った、神田の歴史に造詣の深いある人物から「まちみらい千代田」の助成制度の存在を教えられた。その人は、神田を愛し、神田人であることを誇りに思う根っからの神田っ子・立山西平さん(カンダデザイン主宰)だ。槇野さんがいつからか秋葉原の歴史に興味を持つようになったのも、立山さんの「秋葉原もれっきとした神田の一部なんだよ」という言葉に感化されてのことだそう。

槇野さんいわく、「立山さんはツアーガイドにおける師匠のような方」なのだとか。

まちみらい千代田が行なっている助成制度は「千代田まちづくりサポート(まちサポ)」といって、千代田を活気ある住み良い魅力的なまちにしようと市民レベルでがんばっているまちづくり活動や、これからはじめようとするまちづくり活動を助成金などによって最長3年間サポートするもの。

槇野さんが代表を務めるPCNも、このまちサポの助成を受けて活動している。

助成を受けるためには公開審査(活動内容を公開の場でプレゼンテーションし、学識者、賛助会員企業、地域の方々など、数人で審査を行う)や活動成果発表会などがあり、まちづくりへの情熱を求められる局面も少なくない。槙野さんなりの苦労や達成感はどのようなところにあったのだろうか。

「はじめての公開審査で強く感じたのは、『秋葉原はにぎわっているからいいじゃない』という意見です。千代田区における秋葉原の立ち位置としては、『秋葉原=電気街、オタク、メイド(=メディアで話題のエリア)』『外国人観光客も増えつつある』みたいな感じだったのではないでしょうか。

でも、まずは電気街としての秋葉原の文化が衰退しているということを説明した上で、『私は電気街のともしびを消したくない』『ここの景色を歴史的な遺産として自分の子ども含め、千代田区の子どもたちに残したい』ということを…うまく説明できたかはわかりませんが、想いだけでも伝えたい!という気持ちでお話ししたつもりです(笑)」

それでも助成を受けられることになった理由について、槇野さんはこう考えている。

「まず、多くの人にとって秋葉原という場所と子どもという存在が、やはりまだまだ結びつかないのかもしれません。オタクやアニメというコンテンツはイメージしやすいですが、たとえば子どもを秋葉原で遊ばせたいかといったら、小さい子を持つお父さんお母さんにとっては選択肢にないのかなと。

だからこそ、私は大好きなアキバを『いいところですよ!』『安心安全ですよ!』という気持ちを出しきったつもりです。そういう部分を、理解していただけたのかな、そうであったらいいなと思っています」

05

秋葉原を、千代田区の子どもたちみんなが楽しめる街に

自身、幼少時代に一瞬で虜になり、夢中になり、今でも色あせない愛を持ち続ける場所・秋葉原。今後、この街に来る子どもたちに対して、そしてこれからの秋葉原について槇野さんが思うこと、そして夢とは−−。 

「普段手にしている身近なスマホやIT製品って、内部のコンピューターがどう動いているかなんて見えなくなっているけど、『これはこうやって動いているんだ!』がわかるとまたおもしろさが増すと思います。こうしたことを通してものづくりを好きになってもらえたらうれしいですし、あわよくば秋葉原が好きになってもらえたら」

そして、こうも言う。

「電子工作って、子どもにとって夢中になれるもののひとつだと思います。大きなものをつくるときは、友だちと協力が必要だということも学べるし、プログラムを組むのに手をかけたぶんだけ答えてくれる、というのもわかってもらえると思うし。

ほかの勉強や遊びにも、きっといい影響を与えると思うんです。そうしたら、アキバに固定観念を持っていた方にも見直してもらえるんじゃないかな。まだ少し残るアキバに対する偏見がもっとなくなって、『私はアキバでオタクやってるよ!』と誇りを持って言える時代になるように、これからも私は大好きな秋葉原の新しい魅力を発掘して、発信していきたいと思っています」

子どものころの槇野さんが見つけた、薄暗い高架下でひしめくきらきら輝く世界。そんな、まだ多くの人が知らない魅力が、秋葉原にはたくさん眠っているのかもしれない。

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